80年代広告論争から90年代を読む.1

消費者の理性化と個性化

アプローチのハード化が意味するもの

                           潟vランオメガ代表取締役社長 石井和郎

●訴求のハード化

 商品の訴求方法は、表現面に関しては一般的に、1.商品を離れ、イメージや表現を重視して、主として購買者の感性に訴求しようとする情緒的な感性的訴求と、2.商品に即し、製品自体の特性やベネフィトを中心にして訴求しようとするハードな合理的訴求に分けられます。
 80年代は、商品はその特性によって差別化できなくなったという理由で、もっぱら前者の感性的訴求方法がもてはやされたのですが、90年代に入ると逆に後者のハードなタイプの訴求が目立つようになりました。
 このような総体的な変動を明確に掴むために、ここでは訴求概念を、広告表現についてのみでなく、ネーミングやパッケージ・デザインにまで広げておきたいと思います。つまり訴求の問題を、広告をその中に含むところのマーケティング・コミュニケーションの問題として捉えてみようということです。
 ネーミングやパッケージ・デザインは、消費者に対するアプローチ全体の中でその中心をなすものとして重視されてきたのですが、製品のヒットにおいてそれがさらに決定的ともいえる役割を果たすようになってきたこと自体、現在の訴求方法が「製品より」になってきた全体的な傾向を示すものだといえます。
 洋酒のジャンルでは、このような訴求のハード化の傾向が顕著であり、例としてほかにも、「一番搾り」と同様のコンセプトでそれに続いた「吟仕込み」(サッポロビール)、「ビア吟生=殻破り」(サントリー)があり、また広告では、「100:67」という原料の割合に関する製品スペックそのものをヘッドにした「モルツ」(サントリー)の広告などがあります。
 それは、あたかもおもしろ容器の流行したときのような一過性の観すらあるのですが、たとえば「一番搾り」に先行し、それがヒットするまでビール市場を圧倒し続けていた「スーパードライ」(アサヒビール)の広告を想起すると、そこには、訴求のハード化という一貫した流れがあることが明瞭になります。
 すなわちその広告表現における無駄を排除したレイアウトの直裁さや、コピーの理屈っぽさといったハードタイプの訴求は、企業イメージ広告や有名タレントの起用を中心としたそれまでのビール広告に比べると、すでにかなり異質なものだったのであり、したがってそのような「スーパードライ」の訴求の仕方は、すでにその時点で、「一番搾り」のネーミングや「モルツ」の広告におけるような超ハードタイプの訴求の登場を充分予感させるものだったといえます。

 そしてさらにこのような傾向を遡っていくと、ビールではないもの、同じ洋酒というジャンルの中でそのような流れのそもそもの発端となった製品と思われるものとして、85年に発売されたニッカの「PURE MALT」に行き当たります。
 周知のように、ニッカの「PURE MALT」は、競合会社であるサントリーのウイスキー製品に含まれるモルトの量に疑問がもたれ、さまざまな方面から批判を浴びていた最中に、そのサントリーに追い打ちをかけるようにして出された製品です。そしてその露骨でしかも徹底してハードなネーミングとパッケージ・デザイン、そして広告の前に、当時イメージ広告の雄であったサントリーは厳しい戦いを余儀なくされました。
 山田理英氏(広告戦略家、Y&K アソシエイツ代表取締役)は、この当時のサントリーのおかれた状況に関して、『弱者と強者の新CI戦略』(86年11月誠文堂新光社)の中で、日経流通の調査を取り上げ、サントリーは売上げ不振に陥る前からその訴求が口コミの面で弱くなっていたこと、またサントリーを批判した一連の書物の出版を境にしてサントリーの企業イメージが下がったことを指摘し、その不振の主な要因として、これらの本を発信源としてサントリーの否定的なイメージが口コミによって広がったことを挙げています。
 当時サントリーも黙って傍観していたわけではなく、得意の広告による反撃を試みていたわけですから、このことはしたがって消費者がこの時点でマス媒体を使った企業の宣伝に一方的に躍らされなくなっていたこと、しかも「書物」→「口コミ」という消費者自身の主体的なコミュニケーションをもとにして商品選択を行ったことを意味しています。
 言い換えれば、消費者の理性化に対して、それへの適切な対応を怠るならば、販売が促進されないどころかその企業にとって極めて危険な事態を招いてしまいかねないということにほかなりません。反対に、上記のニッカのハードな訴求は、この消費者の理性化を背景としてその流れに乗ったものであったからこそ成功したといえるわけです。また先の「一番搾り」のヒットに関しても、製造法を訴求するというその最も製品よりなネーミングが消費者に受け入れられた背景には、この消費者の理性化があったことは明らかです。いま述べてきたことは洋酒についてですが、このことはしかし洋酒市場にのみ当てはまることではありません。

●理性化する消費市場

 必要なものを必要とし、不要なものは不必要とする。そしていたずらに高価なものは求めず、かといって安かろう悪かろうではけっしてなく、あくまでも品質を見極めようとする。このような、消費者の理性化は現在の市場で急速にそして広範囲に一般化しつつある大きなうねりです。たとえば、台所洗剤の場合、そのヒット商品の訴求の変遷はそのような動きをそのまま現わしてきたといえます。
 かつて「ママレモン」(ライオン)は、「汚れ落ちの良さ」を訴求ポイントとして普及してきましたが、その際、「なぜ良いのか」といった合理的な訴求はなされてきませんでした。それに対して現在最も普及しているといわれる「ファミリーフレッシュ」(花王)「チャーミーグリーン」(ライオン)は、「手にやさしい」という訴求をポイントに「植物から作られたから」という理由を付加しており、さらに昨年登場し、ヒットした「ナテラ」(ライオン)は、「天然素材を使用しているから手にやさしい」として、その「ファミリーフレッシュ」や「チャーミーグリーン」の訴求にあった論理の曖昧さを排除する形で、よりリーズナブルにその訴求ポイントを示しています。
 あるいはトイレタリーグッズにもこのような消費者の理性化の傾向はハッキリと現れています。たとえば最近のシャンプーのヒット商品である「サロンセレクティブ」(ヘレンカーチスジャパン)のパッケージは、製品特性の訴求を中心とし、装飾的要素を抑えたハードタイプなデザインですが、その製品特性そのものも、シャンプーの「洗うレベル」3種とコンディショナーの「仕上がりタイプ」3種から、最も自分の髪質に合った組み合わせを消費者自身が選べるという多様性の幅広さにあります。つまりこのことは、消費者が、製品の細かい特質を把握したうえで、自分の髪質と考え合わせながら最適な組み合わせを判断するという、かなり高度で理性的な行動を取ることを前提にしているわけです。
 ところでここまで述べてきた消費者の理性化は、一般的には商品の機能、品質、価格等に対してより覚醒した、ごまかしのないものを求める「本物志向」として捉えられています。このことは鵜呑みにすべきなのでしょうか。
 「本物」という概念は、厳密には複製を本質とするマスプロダクションとはもともと相容れない概念であって、法的あるいは道徳的以上にはほとんど意味をもたない概念でした。コピーされたコンピューター・プログラムの価値問題等、とくに先端的な製品ほど、そうだといえます。すなわちオリジナルとコピーされたものとの間に劣化等による差異がまったくないのです。
 本物はオリジナルであり、贋物はそのコピーであるという言葉の意味を考えるならば、本物と贋物とが完全に等価になってしまった現在、「本物」という言葉にこだわってその言葉で今日の現象を言い表すのは時代錯誤という以上の問題があります。したがってそのような志向は、骨董品や美術品のような特定の商品に対してのみ認められるべきであり、総体的に、上記のような消費の傾向を把握するためには、それは精確に「理性化」として捉えられねばなりません。
 以上述べてきたことは、消費者が理性化してきており、それに訴求のハード化が対応しているということに関してなのですが、次にその対応関係の最も典型的な姿を生産財市場おいて見、それをベースに置いて、さらに現在の消費財市場の傾向を明らかにしてみたいと思います。

●理性化する消費市場のモデルとしての生産財市場

 事業所がターゲットとなる生産財市場においては、製品の購入が常に理性的に行われており、そのため広告もハードな訴求が常道とされます。この市場においては、理性化した訴求対象とそれに対応した訴求方法とがいわば純粋培養の形で存在しており、市場が理性化した究極の姿がそこにあるといっていいのかもしれません。
 その生産財市場において製品の購入の仕方が理性化する大きな理由の一つとして挙げられるのが、購入の決定が事業所単位で行なわれ、その決定に大勢の人間が関わるということです。このことは、消費財市場において通常その決定が個人単位で行なわれるか、せいぜい家族単位であることと比べるときわめて対照的です。
 いまひとつの理由は、そのように購入の決定に大勢の人間が関わるため、そしてまた購入する製品がしばしば高額であるために、購入の決定に長期間を要することにあります。
 八巻俊雄氏(東京経済大学教授)によれば、OA機器購入の場合、大雑把に見て、10億円の汎用コンピューターで参加人数45人、購入期間1年6ヶ月とされ、150万円のパソコンですらも参加人員11人、購入期間2ヶ月とされます(『産業広告』88年2月号「産業広告と消費財広告/データーからみた各種の違いより)。
 このように「人数」、「期間」によって購入が理性的に行われる生産財市場では、訴求はハードなものが鉄則とされます。八巻氏は前掲書でこの点について、「産業広告のコピー評価を取るとかならずこういう結果がでる。F社のコピーで『一人行く○○』という広告と、『一枚どり4円50銭』と出した広告を比較してみると後者の方が圧倒的に軍配があがった。あるいはI社の広告で無愛想に製品写真を出した広告と顧客に導入後の成果を語らせた広告とを比較評価させたところ、後者が高い評価を得た。いずれもストレートにきまじめに製品特性を語っていただけである。」と述べています。
 生産財広告には製品スペックをそのままヘッドコピーにする場合がしばしばあります。それは、たとえば半導体などで本来オーディオ用に作られた製品に工作機メーカーからも問い合わせがあるなど、需要が潜在化しているためでもありますが、基本的にはそのような訴求のほうが明らかに良い結果が得られるからだといえます。したがって、だからこそ、このような訴求の仕方は生産財広告に特有なものと、ほとんど2、3年前までは思われてきたわけです。ところがそのようなハードな訴求が消費財広告を賑わすようになってきた。すなわち消費者はいまや事業所並みに理性化してきたのだということになるのです。
 このように消費財市場と生産財市場とを並べ、その共通してきた面と異なる面とを比較したときに、いま消費財市場に起きている現象の、合理的に説明しきれないと思われている点が明らかになると思います。
 すでに述べたように消費財市場と生産財市場とを画然と分けてきたのは、前者の購買が個人を単位としており、後者が事業所すなわち組織を単位としているからなのです。しかし個人個人に関してはますます個性化しつつあるわけです。ところが消費者全体としては明らかに理性化しつつある。この現象を、おそらくほとんどの人は矛盾だと感じるのではないのでしょうか。
 かつて小川明氏(現・博報堂新規事業開発室長)は、ベストセラーとなった『感性革命』(TBSブリタニカ 83年12月)の中で「つまりモノを自己実現、自己表現の演出材料として捉えるということになり、したがって、価値観そのものも、従来の『良い・悪い』とは異なって、『好き・嫌い』をもっと突き詰めた感覚であるところの『快・不快』が重要なポイントとなってくる。」と述べて感性論の口火をきりました。
 ここには、「良い・悪い」という単一の理性的基準で消費者が商品を選択すれば特定の商品のみが売れるはずだ、しかし現実はそうなっていないという、今日の、市場の多様化に対する認識があります。確かに市場は理性化していると同時に多様化もしているのです。問題は、この現象をどう捉え、説明しきるかにあります。
 これによく似た問題を巡った論争が、80年代の中ごろに起きています。いわゆる「消費論論」争ですが、次回は上記してきた問題を解く鍵をこの論争中に求めつつ、振り返って見たいと思います。

ページのTOPに戻る