80年代広告論争から90年代を読む.2

ダブルイメージ化した市場
80年代消費論争を振り返って

                           潟vランオメガ代表取締役社長 石井和郎

●少女と老婆

 左の図は、ダブルイメージという錯覚現象を説明する際によく用いられるだまし絵の一つです。
 見ての通り、この絵は、少女と老婆という二つの見え方の間を交互に反転し、私たちは、この二つの見え方を同時に知覚することができません。その見え方を少女なら少女にあえて特定しようとすれば、たとえば老婆の鼻のイボに見える部分を少女の鼻と思ってそこだけを凝視しなければならないわけです。
 単純に捉えることのできなくなった現在の消費者のイメージ。二律背反した様相すら見せるその姿は、ちょうどこのダブル・イメージにたとえることができるであろうと思われます。
 すなわり現在の消費者は、その姿を見極めようとすると、均質性を持ったマスとしての消費者像と、細分化した価値基準によって動く個性化した消費者像という二つのイメージの間を目まぐるしく反転し始めるわけです。
 この不安定な消費者のイメージは、80年代半ばごろ、その問題を発端とした大規模な大衆論争を引き起こしました。
 そしてこの消費論論争とも呼ばれた論争において、社会は現在脱大衆化しつつあるか否かを争点とした活発な論議が行われたのです。
 ところで前回、小川明氏(当時、博報堂事業開発室長)の文章を引用して述べたように、「良い・悪い」という理性的基準を単一性の基準として捉えるならば、理性化しつつあると同時に多様化・個性化しつつもある現在のダブル・イメージ化した消費者像は、論争当時の延長上にあるといえます。
 すなわち論争は消滅しているにもかかわらず、問題自体は残されており、具体的・現実的にはむしろ、さらに精密かつ明確な論議が必要とされているのです。

●論争の発端

 消費論論争は、当時消費市場が細分化して大型のヒット商品が出にくくなったと言われたなかで、従来どおりマス・マーケットあるいは大衆というものの存在をマーケティングの前提におくべきかどうかという論議から始まりました。
 その発端となった藤岡和賀男氏(当時、電通PR局長)の『さよなら、大衆。』(84年7月 PHP研究所)は、つづいて出版された博報堂生活総合研究所編の『「分衆」の誕生』(85年1月 日本経済新聞社)とともに、マス・マーケットの崩壊を主張して、当時「少衆」「分衆」が流行語となるなど、広く話題となりました。
 この書の中で藤岡氏は、在来のマーケティングの「ある属性に分類された『大衆』は共通の価値、共通のニーズを持っている」という仮説はすでに崩壊しており、マーケティングは今後「『感性』で結ばれた『少衆』に対応していかなければならない」とし、そのような仮説の崩壊の例として有名ブランド離れやテレビのパワーダウンをあげ、反対に「少衆」をとらえ得た成功例をしてホンダのシティをあげました。
 そしてシティは、従来の固定観念からすればずんぐりとした格好悪い車であり、メーカーにとっても「100人に1人気に入ってくれればいい」という開き直った挑戦の結果生まれたものであったにもかかわらずヒットし、ここに在来のマーケティングを超えた「感性のマーケティング」と呼ぶべきものの可能性があると主張しました。『「分衆」の誕生』も、マス・マーケットの崩壊に関して藤岡氏と似た立場に立ち、実体のない中心に向かって、凝集させられていた大衆は、いまや分化、解体して拡散しており、人びとは、種々の差異の組み合わせによって無数に細分化され、「分衆」となっていると主張しました。この「少衆」「分衆」論に対してさまざまな立場からの批判がなされ、華々しい論争となったというのがこの論争のいきさつです。
 すなわちこの論争は、右の「少衆」「分衆」論の主張が示すように、本来、広告あるいはマーケティング上の問題を中心としたはずの論争だったわけです。
 ところが「少衆」「分衆」という概念が従来の大衆概念に抵触しているとして、アカデミズム側からの反論もあり、消費論を中心とした大衆論論争として、議論の輪が広がっていきました。
 このような経過のため、この論争の全体像は、消費社会に関するさまざまな視点からの意見が複雑に錯綜した姿となっています。ですからこれを概略的に追えば、単に論議の紛糾した有り様が印象付けられるだけに終わってしまうわけです。
 したがってここでは吟味の対象を直接、広告あるいはマーケティングに関わる論議の限定し、焦点を絞り込むことによって、問題の本質を明らかにしていきたいと思います。

●論争の基本構図

 このような限定のうえでこの論争の再構成を続けるならば、先の「少衆」「分衆」論に対する反論としてまず挙げられるのが日経ビジネス編の『主役は「隠れ大衆」』(86年4月 日本経済新聞社)と、TBS調査部編の『「新大衆」の発見』(86年4月 東急エージェンシー出版部)です。
 前者の『主役は「隠れ大衆」』では、(『さよなら、大衆。』でも取り上げられた)シティの売り上げが、発売当初の爆発的な人気をへて、84年頃からジリ貧に陥った事実をあげ、その原因は広告の派手さによって中高年がそっぽを向いたためだとし、移り気な若者に市場を限定する危険性を主張しました。
 また後者の『「新大衆」の発見』では、「少衆」「分衆」論は「マーケティングをとめどない縮小再生産へとみちびく」といsた、マス・メディア、マーケティング側からの、その立場を最も鮮明にした反論を行いました。
 そこでは、テレビはパワーダウンしたという藤岡氏の主張に対し、ホームドラマの視聴者である2000万人というマスの存在等によってそれを否定しています。また同じく藤岡氏によって主張された細分化した市場に対する在来のマーケティングの無効性に対しても、「二つ以上の異質なターゲットに支持されるものがヒットする」という複合ターゲット論によって乗り越えられたとしています。
 そして前者、後者ともマス・マーケットが崩壊していない具体例として、ミノルタα-7000、ファミコン、東京ディズニーランド、テレフォンカード等のスーパーヒットをあげており、これらの商品はこの反論の最大の目玉となったわけです。
 たしかに、ここで示されている東京ディズニーランドの年間入場者数1000万人、ファミコンの売上げ600万台といった数字は、マスの存在を歴然と示すものに他なりません。しかし一方でその同じ市場が、「少衆」「分衆」論の強調するように消費者が戸惑うほどに多様化し、細分化されているということも事実です。
 このように「少衆」「分衆」論側と、それに反論を唱える側とが、それぞれ背反する現象に依拠しつつ対立、拮抗したというのがこの論争の最も基本的な構図でした。
 したがってその論議の内容もこのような現在の市場の姿、すなわち均質化したマス・マーケットとしての顔と、個性化、多様・イメージ化した状況をどう把握し、説明するかという点に最大のポイントがあったわけです。
 このことは、論争の発端となった「少衆」という言葉自体が、そもそもそのようなアンチノミーを説明する概念として登場していることによっても明らかです。
 すなわち『さよなら、大衆。』では「少衆」について、「『感性』という最も個人的、個別的なモチーフを生き方の中心に置きながら、だけど一人ぼっちはいいやだ、仲間が欲しいということになると、もちろん大衆はもっといやなわけですから、結局『少衆』ということになる。」として、それを消費者の内面の分裂と均衡の結果として描いています。
 また一方の、「少衆」「分衆」論に反対する立場においても、前出の『主役は「隠れ大衆」』では、「隠れ巨人ファン」からの借用である「隠れ大衆」という題目の示す意味が、「『大衆』は軽蔑すべき対象として普段は『個性化、多様化』の仮面をつけているのだが、時としてこの仮面をかなぐり捨て自らが軽蔑する『大衆』に変貌する。」ということであることからも、その主張の主眼が先の市場のダブル・イメージ化の説明にあることは明らかです。
 要するに「少衆」「分衆」論と、「隠れ大衆」「新大衆」との対立点は、市場の多様化が消費者の個性化によってもたらされたという共通認識を持ちつつも、一方がその個性化を最重要視するのに対し、他の一方はそれを些細な問題として捉えようとする点にあったわけです。
 後者においては、たとえば『主役は「隠れ大衆」』では、前記のようにそれを「仮面」にすぎないとしており、また『「新大衆」の発見』では、上村忠氏(当時、東京放送調査部長)の、「こういう分衆というのは確かに一面の事実はあろうと思うんですよ。ただ分衆という特定のエリートが常に一割なら一割存在するというんじゃなくて、一人の人間がだいたい九割が大衆で一割が分衆だろうと思うんですね。その一割の分衆はなにか言うと、誰でも持っている一番好きな、自分の得意な領域です。」という発言に見られるように、消費者の個性化をごく部分的な問題として考えようとしているわけです。

●双方が抱え込んでいるディレンマ

 ところで、このような双方の論者のものの見方には、ちょうど冒頭に挙げた錯視図を見る見方に酷似した点があるといえます。すなわち少女なら少女にイメージを固定させようとしたあの困難な凝視の仕方です。
 つまりここでの論者はともに、明らかに脱大衆化しつつあると見える一方で、ますます大衆化しつつあるとも見える現在の消費者のイメージを、どちらか一方に特定しようとし、その特定されたイメージにとって否定的な現象を逆にできるだけ無視しようとしているわけです。
 これは明らかに論者双方がディレンマを抱え込んでいることを示しており、この問題の難しさを現わしています。
 このように、この論争の中心となった論議が、消費者の個性化の問題を俎上にしてマス・マーケットの存否を争う論議であったのに対し、村上泰亮氏(当時、東京大学教授)、西部邁氏(当時、東京大学助教授)等の、この問題に関するアカデミズムを中心とした主張は、消費の多様化を大衆概念に対立させて考えることへの批判を基調としたものでした。言い換えれば、消費の多様化をもって消費者自身の本当の意味での個性化が喧伝されることへの強い意義が出されたということです。たとえば西部氏の「誰もが差別化を口走るというのは、言葉の次元においてで、同一化が進んでいることの証拠である。」(『Voice』85年8月号 PHP研究所)という言葉は、このような流れのなかで語られているわけです。
 ところで、このような個性化に対する異議を徹底させ、先の論議における双方の共通認識となっていた〈消費者の個性化→市場の多様化〉という因果関係を否定したうえでの論理展開を行なったのが小沢雅子氏(当時、東京工業大学助教授)でした。
 小沢氏は、『新「階層消費」の時代』(85年7月 日本経済新聞社)において、消費が個性化するほどに消費者の価値観が強固に形成されているとすることに疑問を呈し、「『とかくメダカは群れたがる』(平林たい子)というわけで、現在の日本の消費者も、依然として帰属欲求が強く、何かと群れをつくりたがるようだ。竹の子族、サーファー族、暴走族と呼ばれるグループがそうである。サラリーマンが連れ立って昼食に出かけたり、ゴルフに行ったりするのも、同じようなグループ志向であろう。」と述べたうえで、「消費」「家計」「貯蓄」に関するデータをもとに因子分析を行なった結果、消費の個性化と言われる現象の実体がグループ化であり、しかも階層分化であるとしたのです。
 この、消費者の個性化を真向から否定した小沢雅子氏の主張にディレンマはなく、その意味ではその論理は非常に明快だといえます。
 しかし個性化の問題は、その本質からして小沢氏の主張におけるような十把一からげ的に扱える性質のものではなく、本来的に一筋縄では行かない複雑さと奥行きの深さを持った問題であることは明らかです。
 個性化の問題を割り切ってしまった小沢氏の軽快ともいえる論理の明快さは、むしろそのことをあぶりだしているといえるのかもしれません。

●論争後の状況

 この論争自体は、結局80年代後半からの空前の消費ブームのなかで、それに飲み込まれるようにして消えていき、現在はそこで論議されながら未結着に終わった問題が、いわば雨ざらしのまま残されているといった状態であるといえます。
 ですから本来ならば、論争中に浮かび上がってきた種々の概念や論点も論争の風化とともに雨散霧消していくと考えられていたはずのものだったのです。
 ところがそこで論議の焦点となった、たとえば「少衆」「分衆」といった言葉は現在もなお立派に生き残っており、むしろ一般的に市場を分析する際には不可欠と言っていい概念となっています。
 しかし少なくともこれらの概念が生き残っていったプロセスは、相当問題のあるものだったと言わなければなりません。この論争は、先に述べたように基本的に深刻なディレンマを抱え込んだものであり、一方の「少衆」「分衆」論側も当時は激しい十字砲火の中で身動きのつきにくいかなり厳しい状況に置かれていたというのが事実なのです。
 それにもかかわらず結果的に論争が下火化していくとともにこれら議論の焦点となっていた概念から、右記のように枷が外れたようになってしまいました。
 それはあたかも論争そのものが、私たちの意識においてアンダーグラウンド化するなかで、それ自体ダブル・イメージ化していき、そこで議論された概念は、当時の論争全体との脈略とは関係なく、そこかしこで自由に明滅し得るようになったかのようです。
 このようないきさつは、これらの概念にとっても不幸なことであると言わなければなりません。

●論争中の盲点

 この論争は、総体的には種々の消費者像や大衆像が多数の論者によって描き出されつつ行われた百花繚乱の論争であり、論争当時からすでにその混迷ぶりが評された論争でした。
 つまり当時の論議は、見えにくくなったと言われた市場あるいは社会を対象とし、それを説明するためのさまざまな消費者像や大衆像が次々に押し出されてきた主観性の強い論議だったと言えます。それに対して、ものの見方、考え方そのものを振り返る、冷めた考察はおざなりだったと言えるのです。
 ここで先のダブル・イメージに関していえば、そのような錯視を引き起こす錯視図の存在は、ものの見え方というものが、常に我々の主観によって左右されているのだということを教えてくれます。
 このことは、この問題にとってもきわめて示唆的であると言わなければなりません。
 つまり、これほどに紛糾し、行き詰まった論議において、その問題を解く鍵は対象そのものよりもむしろ主観、即ち論者側のものの見方、考え方の中にあるのではないかということです。
 そもそもこの論争は「大衆化」と「個性化」という二つの概念を巡る論議であり、当然その二つの概念上の重みは同等でなければならないはずです。ところが右のような観点から論争中にこの二つの概念を追っていくと、次のことが明らかになるのです。即ち「大衆」に関しては、「少衆」「分衆」「隠れ大衆」「新大衆」といった、「大衆」の派生語による題目が論争中次々に登場したことが示すように、「大衆」がさまざまな角度から論議されたのに対し、後者の「個性化」そのものを中心とした、あるいは、それを対象とした論議はほとんどなされなかったということです。
 先に強調したように、「大衆」概念に比べて「個性化」の意味が単純明快であるとはいえず、むしろはるかに複雑で曖昧であるといえますから、この関係はきわめてアンバランスであると言わなければなりません。
 そしてその「個性化」が、たとえば「人それぞれが、やりたいことも違えば欲しいものも違うという当たり前の事」(『「分衆」の誕生』)といった漠然とした意味で用いられていると、論理展開上の問題として、最初の意味がねじれて別の意味になったり、論者によって認識が食い違っていたりする可能性がきわめて高く、それだけですでに紛糾の種はまかれていると言っても言い過ぎではありません。
 それにもかかわらず上述のアンバランスが是正されなかったのは、論議が「大衆」に集中していたため、「個性化」の問題は盲点になったのだと思われます。
 しかしこの盲点にこそ、単に論議紛糾の種のみでなく、先の市場のダブル・イメージ化の問題を解く鍵も秘められているのです。
 次回はこの盲点となった「個性化」概念を明確化するため、現代人の社会的性格の変化を描ききったD・リースマンの類型論に依りつつその腑分けを行ない、問題の解明に迫りたいと思います。

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