80年代広告論争から90年代を読む.3

4種類の「個性」

自律型、内部指向型、他人指向型、そして「個性の墜落した形としての」個性

                           潟vランオメガ代表取締役社長 石井和郎

●現代の若者像と宮崎勤

 数人のゲストを招いたある日のテレビの番組でのこと。画面にはインタビューに対して熱っぽく答える青年の後ろ姿が映し出されていました。その真剣な様子は彼の声だけでなく、その後ろ姿の、力のこもった動作にもよく表れています。
 彼は、養女を連続して誘拐、殺害した宮崎勤を強く非難しているのです。事件以後、宮崎勤と同じ趣味を持つ人間がそのことによって宮崎勤と同一視されるようになり、自分の場合も、宮崎勤が愛読していたというある種の漫画本においてたまたま趣味が共通していたために大変迷惑していると訴えます。そして漫画におけるフィクションの世界と現実の世界を混同するなどということは、普通の人間には絶対に有り得ないことだと繰り返し断言します。
 この後ろ姿の青年の力説の場面の後、画面はスタジオに替わり、番組の司会者によって先の場面の説明がなされます。そしてこの青年がこの時すでに幼女に対する破廉恥事件の容疑者であったのであり、このインタビューの後、ほどなく逮捕されているということが明らかにされます。
 私はこの番組を見ながら、仮にこの青年が逮捕前の宮崎勤であってもやはり同じようなことを語ったのだとうかと思ってみました。この考えは、この後ろ姿の青年を彼と同様に非難するもう一人の変質者を想起させます。
 この変質者を非難する変質者というユニットは無限に連続するパターンを生み出します。そのイメージは、先の後ろ姿の青年を合わせ鏡の中に置いた状態として表現できます。つまり彼の前に映っているのが彼の分身たる宮崎勤であり、そのようにして彼の前と後ろに無数の彼、あるいは宮崎勤の分身が連なっているわけです。
 このイメージの暗示するものは、その無数の宮崎勤の連なりの中には誰がいても不思議ではないのだという不吉な可能性です。
 中野収氏(現、法政大学社会学部教授)は、宮崎勤について「彼は病者ではなく正常である、という論理構成だって可能なのである。」(『若者文化人類学』91年7月 東京書籍)と述べています。団塊の世代以降の若者を分析した、氏の文脈中に置かれたこの事件は、まさに「起こるべくして起こった」(同書)という他はないかのようです。
 中野氏は、この書においてミーイズム、新人類、おたく族等といわれてきた戦後日本の若者の精神的傾向を、際限なく膨張させられた自我が互いに衝突を避けるためにかえって自閉的にならざるを得なかったという「逆説的構造」をもって説明しています。そして新人類の特徴と言われた外面的なよそよそしさ、孤立化も、実は内化した普遍的規範を喪失した結果として化物のようになった彼らのエゴイズムの、ナルシシズム的な裏返しに過ぎないとします。
 見方によっては戦後最悪と言ってもいいかも知れない凶悪犯宮崎勤の一連の行動に、この「逆説的構造」を指摘するのはきわめてたやすく、中野氏の描き出す若者像に対して、逆に宮崎勤を区別することのほうが困難だと言えます。
 中野氏は、宮崎勤について「彼が知らなかったのは、ブラウン管上の約束事と現実のそれとが、決定的に違うということである。」(同書)と述べていますが、これを裏返せばその点を除いた場合、宮崎勤を、彼と同世代の若者と隔てるものは何もないということになるのだろうと思います。
 先の後ろ姿の青年の力説して止まなかったのが、この「決定的に違うということ」だったのであり、宮崎勤はいざ知らず彼はそれを知っていたということであって、中野氏の論理に従えばこのことは、現在の若者の精神風土が中野氏が考える以上にはるかにブラックな状態にあることを示唆しているのだということになるのだと思います。

●大衆論論争の論者に共通していた若者観

 前回、80年代の消費論を中心とした大衆論論争の紛糾の主要な原因として個性概念の曖昧さをあげ、それを、D・リースマンが『孤独な群衆』(過当英俊訳 みすず書房)において描き出した社会的生活の類型をもとにして整理する必要性を述べました。
 その場合にあらかじめ注目しておきたいのは、対立、紛糾したこの論争の当事者がいずれも、現代の若者の精神的傾向に対するペシミスティックな見方において共通しているという点です。個性化に対して否定的な側のみでなく、個性化を謳っているはずの側もその根底においてそうだということです。むしろ「少衆」論、「分衆」論ともに右の中野氏の「逆説的構造」を肯定こそすれ、それを否定しうるものではけっしてないのです。
 これらのことは、あまりにも一面的に過ぎると思われる中野氏の描いた若者像のはらんでいる今日的意義を示唆するものです。

●「自律型」個性---究極価値としての個性

 リースマンの類型の一つである「自律型」は、自己の潜在的個性を開花させる力を持った人間であるとされています。ここではそのような人間によって表される個性を「自律型」個性と呼ぶことにします。
 A・H・マズローは「完全なる人間」(上田吉一訳 誠信書房)の中で、「われわれは哲学者が幾世紀にもわたって、無駄な努力を重ねてきた価値観問題の多くを解決できるのである。一例を挙げると、人類にとって単一の研究価値、全ての人々が努めている最も高遠な目標があったかのように見える。これは異なった研究者によって、自己実演、自己達成、統合性、心理学的健康、個性化、自立性、創造性、生理性とさまざまに呼ばれているけれども、それらはすべて人の可能性を実現するものであり、いわば完全な人間になることで、人のなり得るあらゆる事柄を意味するものという点で一致をみるのである。」と述べていますが、右の「自律型」個性も、それ自体、究極価値としての格別の意味を持つことは明らかです。
 つまり「自律型」個性は、以下にあげるその他の「個性」から峻別されるべき、人類共通の価値・目的としての個性、真の個性というべきものです。
 ところで『さよなら、大衆』で藤岡和賀男氏によって新しい時代を担う人間像として描かれた「ホモ・クレアンス」は、リースマンの「自律型」とよく似ています。
 すなわち「自律型」が「その社会の行動面での規範に同調するかしないかに関しては選択の自由を持っているような人間のこと」(『孤独な群衆』より)であるのに対し、「ホモ・クレアンス」も『客観的な良い、悪いといった価値判断にとらわれて卑屈になったり優越感を持ったりしない』人間であるという点。
 また「自律型」が「自分自身の実感と潜在的な能力と、自分自身の限界とを見極める努力に成功」(『孤独な群衆』より)した人間であるのに対して、「ホモ・クレアンス」も「ありのままの個性を認め、自己表現をしていく」、そして「神が人を創った、そのひそみではない。人が人を作っていく」とされている点です。
 このような特性、つまり文化的・社会的にある程度独立あるいは超越しつつ、自分がより自分自身であろうとする性質こそが、「自律型」の本質である自律性に他なりません。
 先の、人類の価値、目的の一致を述べたマズローは、『人間性の心理学』(小口忠彦訳 産業能率短期大学出版部)の中で、究極価値としての個性化の具現である「自己実現的人間」について「彼らが自律的であるということ、すなわち社会の規則よりは彼ら自身の法則によって支配されているということが言えよう。」と述べて、「自己実現的人間」が自律性によって規定されていることを示していますが、その「自己実現的人間」の示す超越性を次のように臨床的にまざまざと描いています。
 「自己実現的人間に見られる分化からの超越性は、すでに述べたように彼らが他の人々から超然としていることや、またプライバシーを好むということのほか、親しいものや慣習的なものを必要としたり好んだりすることが平均より少ないということにも、おそらく反映しているであろう。」(同書)

●「内部指向型」個性---セットされてある個性

 リースマンは、普遍的概念である「自律型」が、歴史的概念である「内部指向型」としばしば混同されるとして嘆いているのですが、その「内部指向型」とは、17世紀以後、工業を基調とした時代に形成された社会的性格とされ、幼少期に内化された信念や信条に基づき、怠惰を敵として、ひたすら働き続ける仕事本意の、消費よりも生産を優位とする性格とされます。
 ただ消費に対して「内部指向型」が消極的だというのではなく、むしろ彼らは富、所有、名声、といった一般化された目標をエネルギッシュに求めるのであり、「これ見よがしの消費」はまさにこのタイプの特徴であるとされます。
 これに対して現在に到る近年の社会的性格は、社会がサービスするようになったため、「同時代人を人生の指導原理に」し、「他社からの信号にたえず細心の注意を払う」(『孤独な群衆』より)ことを特徴とする「他人指向型」になったとされます。
 リースマンは、「自律型」と「内部指向型」が混同されやすいのは、現在の自分たち自身の性格である「他人指向型」と比べて、カウボーイ的な「内部指向型」の人気がそれだけ高いからだとして、その理由をアメリカ人のノスタルジーに求めました。
 これに対して日本の新しい個人主義の形成を描いた『柔らかい個人主義の誕生』(84年5月 中央公論社)の著者である山崎正和氏はその中で、「内部指向型」におおよそ相当する「硬い自我」を西欧の個人主義の伝統に深く根付いたものだとして次のように述べています。
 「デカルトやサルトルにいたるまで、近代思想の多数派が信じたのはこの自我であったし、17世紀の初期資本家と19世紀の共産主義者が、もし一致しうるとすれば、それもたぶんこの自我を擁護するという点においてであっただろう。そして、この圧倒的な指向の習慣のもとで、今日、われわれがごく普通に個人主義と言う場合、ほとんど無意識に思い浮かべているのは、この剛直で硬質の自我の自己主張のほかにはないのである。」 このような「剛直で硬質の自我」がいわば理想化された自我として、「圧倒的な思考の習慣」のもとに、しかも「無意識に」認識されているというこの山崎氏の指摘が現在の「個性」の概念上の混乱に対して重要な意味を持つことは明らかです。
 リースマンは、人口の増大期においてはフロンティア(物質的生産、植民地獲得、知的発見)に挑戦する能力が要求され、その結果生まれたのが、一般化、抽象化された目標に向かって休みなく働き続けることのできる「内部思考型」だったとしています。
 したがって「内部指向型」は、「個人の外にある価値のあらゆる根源の、完全な崩壊」(A・H ・マズロー『完全なる人間』)という今日の現実の前では、その存在意義をまったく失ったタイプだといえます。しかし「内部指向型」は、現実にはそのように過去の存在と化しているにもかかわらず、山崎氏の指摘のように個人主義観念の中では脈々と生きているとするならば、先の「自律型」と「内部指向型」との混同もその当然の結果であるといえるわけです。
 この「内部指向型」に対するノスタルジックな思考習慣は、今日の個性概念にも強く影響を及ぼしており、たとえば個性を、帰属欲求や易動性といった「他人指向型」の特質に対立するものとする考え方等も、その場合の個性概念は「内部思考」によって規定されているのだといえます。
 このような個性は理想的には環境のいかなる変動化にあっても毅然とした生き方を失わない不変性としてイメージされます。しかしその不変の方向性は幼少期に親によってセットされてあるのであり、本人はそこへ向かって行くほかはないわけですから、鉄砲玉のような個性だといえます。
 ここではこのような個性を「内部指向型」個性と呼んで他と区別します。

●「他人指向型」個性---記号としての個性

 リースマンは、「他人指向型」は他人からの承認の欲求を本質としているため、「他人指向型」社会では個人の潜在的個性は抑えられているとしましたが、一方でその同じ欲求が個人に他人との差異化を行なわせているとも述べました。
 すなわち価値競争のなされない独占的競争下では、各々の製品にその立場を有利にするための小さな製品差が加えられるが、このような方略は人間にまで拡大して考えることができるとし、これを総称して「限界的特殊化」と呼びました。
 つまり「他人指向型」社会では人間も「製品差」に相当する差異を自己のパーソナリティに加え、しかもそれによってなされる競争は他人の承認を得ることを目的としているため(「敵対的協力」)、その差は目立ちすぎないものとされる。そしてこの「限界的特殊化」は趣味の交換を舞台とし、そのエネルギーは消費のフロンティアへと流れ込む。
 リースマンは、消費はこのようにして社会化されるとしたのですが、さらに「同輩集団は、それ自身、消費の対象である。そして、それが趣味における主要な競争でもあるのだ。」(『孤独な群衆』より)と述べて、「他人指向型」社会における個人が集団的統合へと全人格的に巻き込まれている実状を示しました。
 ボードリアールは、現代社会の消費の虚構性を分析した『消費社会の神話と構造』(今村仁司・塚原史訳 紀伊国屋書店)において、このような消費の社会化を前提的事実としてそれを記号論的に捉えることによって明確化しました。そして現代の消費を、単なるモノの機能的な使用や所有としてではなく言語活動として定義したうえで、個人的差異に関し、「かつては、生まれ・血統・宗教上の差異は交換されあうものではなかった。それらは『消費』されるものではなかったのだ。ところが現代の差異は、服装やイデオロギーや性の差異さえも、消費の巨大な連合体の中で互いに交換される。それは諸記号の社会化された交換である。」として、現代社会における個人的差異が真の個性として存在しているのではなく、商品と同じように交換されあう記号と化していることを明らかにしました。
 リースマンがそうであったように、当然ボードリアールも個人を記号のコードに服従させるこのような差異を「個性」とは呼んでおらず、反対に現代の広告が消費者にその差異を「個性」と思わせ、「自己陶酔的熱中」に陥れているとして、それを繰り返しいかさま扱いしているわけですが、ここでは、このような差異をあえて個性、それも「他人指向型」個性と呼ぶことにします。なぜならば現在最も今日的と言われる個性が、この「限界的特殊化」による差異に他ならないという概念上の現実があるからです。
 ただし、ここではこれが最も重要なことなのですが、ボードリアールが、「消費社会のナルシシズムは独自性の享受ではなくて、集団的特性の屈折した姿である。」と述べているように、その本質が承認を求めた、集団への順応であるという意味において、この「他人指向型」個性があくまでも「他人指向型」の範疇内にあるのだということは、あらためて明記されておく必要があります。

●『個性の堕落した形としての』個性

 リースマンは自己中心主義や、奇人、変人を個性の堕落した形としていますが、ここでは右にあげてきた「自律型」個性、「内部指向型」個性、「他人指向型」個性に加え、この「個性の堕落した形」を四番目の「個性」とし、それをあえて「個性の堕落した形としての」個性と呼びたいと思います。
 奇人、変人に属する性格、スタイルを現実に私たちは「個性的」と呼ぶ場合があり自己中心性などは先にあげた『若者文化人類学』(中野収著)では、それこそが現在の若者の「個性的」行動の実相であるとされており、事実そのような病理的側面の無視し得ないことも事実だからです。
 したがって中野氏の描いた、宮崎勤がそのチャンピオンであるといっていい若者像によって表される「個性」は、この「個性の堕落した形としての」個性に分類されます。しかもこの中野氏の描いた若者像によって表わされた「個性」には先述したように奇人、変人の場合とは異なる根深い、致命的ともいうべき今日的意義があるのです。
 以上に分類した「個性」をもとに先の論争を整理し直すことによって、「市場のダブルイメージ化」という当初の問題を解明していくなかで、今後明らかにしていきたいと思います。

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