80年代広告論争から90年代を読む.5

「自律型」個性化と感性論


                           潟vランオメガ代表取締役社長 石井和郎

●「自律型」個性化における正負の方向性

 自分がより自分自身であろうとする「自律型」個性化は、可能性として潜在している自己の個性の実現であり、そのような方向性は、言いかえれば人間の生命や成長の肯定だといえます。図1の「自律型」個性化の軸における正方向の矢印はそのような、生へと向かう前進と成長の方向性です。それに対し、同じ軸における負方向の矢印は生の否定、すなわち死へとドライブされた衰退の方向性です。
 この、生と死という相対立する方向への衝動の存在を最初に仮説したのはフロイトですが、そのフロイトの理論に修正を加えながらそれら二つの方向性をおのおの明確化したのがエーリッヒ・フロムです。
 フロムは、生への方向性は、バイオフィリア、隣人への愛、独立、自由として現れ、死への方向性は、ネクロフィリア、ナルチシズム、母固着として現われるとしています。ここでのバイオフィリアというのは統合、合一、成長への愛好を示し、一方のネクロフィリアは逆に生命のないもの、機械的なものへの愛好を意味します。またナルチシズムと母固着はともに退行という意味においてネクロフィリアと深く関係し合うとしています。
 ネクロフィラスな人びとを魅惑するものは、死および死を象徴するもの、すなわち屍体、殺害、流血、テロ、腐臭、排泄物や汚物(不用になったものとして)、墓、骸骨、病気、暗闇などであり、また現代産業社会では特に「清潔でぴかぴかと光る機会」(『破壊』 作田啓一・佐野哲郎共訳 紀伊国屋書店)が死を象徴するようになったとしています。
 フロムの明確化したこの生と死への両方向性の規定は、そのままここでの「自律型」個性化に当てはめることができます。すなわち「自律型」個性化における正の方向性は、自己実現、光と至福の世界、善へと向かう方向性であり、自律性の増大はそこへ向かうための不可決の条件であり、反対の負の方向性とは、無機的状態、闇と呪いの世界、悪へと向かう方向性です。
 またフロムは、無意識性のゆえに自然の一部となっている動物と違い、人間は自己を意識する能力を持つために、自然の一部でありながらそれを超越をもしており、そのために宿命的に世界に対する分離感を持たざるをえず、その分離感や孤独感を解決する方法として二つの解決方法を持ったとしました。すなわち理性や愛の力でそれを解決しようとする「前進的解決法」と、理性を持たない原初的状態へ戻ることによってそれを解決しようとする「退行的解決方法」です。
 現代社会におけるこの二つの解決法はそれぞれ、先の図で言えば「自律型」個性化の軸に対する正方向の努力が「前進的解決法」にあたり、負方向の努力あるいは情熱が「退行的解決法」にあたります。そして『さよなら、大衆。』『「分衆」の誕生』における理性を否定し感性を重視しようとする主張は、言うまでもなく後者の負の方向へ向かうことにあります。そしてここにこれらの主張の最大の問題点を見出すことができます。
 なぜならば両者はともに今日の消費者における自律性の増大、より自分らしくありたいという個性化傾向を謳う一方で、消費者に対するアプローチとしてはそのようなそれと正反対の「退行的」方法を主張していたのであり、両者はその意味で大きな分裂を抱えていたといえるからです。

●感性論とネクロフィリア

 フロムは、ネクロフィラスな人びとの性格の大きな特徴は生きた統一体を引き裂き、ばらばらにしたいという欲望にあるとし、より理性的であるべく本来統合されてなければならない思考と感情を切り離そうとするのもこのネクロフィラスな傾向によるのだとしています。このことによってフロムは現代の唯知主義的傾向を批判するのですが、一見するとその唯知主義と反対の主張に見える感性論も、実は唯知主義と同じくネクロフィラスな傾向の産物であって、その意味においてそれらはきわめて親しい関係にあることが想定されます。そして感性論としてのこの意味における一貫性をかなりはっきり見てとることができると思われるのが『「分衆」の誕生』です。
 図2は『「分衆」の誕生』の主張を要約したといえる同書中の付図です。この付図について牛窪一省氏(当時、Mリサーチ・アンド・ディベロップメント社長)は『「新大衆」の発見』の中で、「無限の差異を示す人びとが、無限に差異化された商品に対するという『分衆論』に見られるような構図は、じつに寒々としたものである。そこには人間同士のコミュニケーションがどう形成されているかという視点がまったく欠落しているし、差異のない商品を差異化するのはそれを使用する人間の個性であるという、人間の能動的な役割についてまったく配慮がないからである。」と述べ、また西部邁氏の言葉を引用しつつ「『分衆論』に代表される『人間の差異化』論が、人間の意味・価値をずたずたにして、すべてを好き嫌いの感情に収斂させていくとすれば、そこから誕生するのは新しい時代のアトミズムではないだろうか。」(同書)と述べて分衆論に対する批判を展開しています。
 これによって牛窪氏が取り上げようとしているのは分衆論の持つ非現実性や非有効性の問題なのですが、ここでは、分衆論の持っている、牛窪氏が抱かせられた「寒々とした」、あるいは「人間の意味・価値をずたずたにして」いるといった感じが特に注目されます。確かに、この図式の背後には細分化と単純化への猛烈な情熱ともいうべきものが感じられます。
 個人は、前回も引用した山崎正和氏の言葉のように「多様な他人に触れながら、多様化していく自己を統一する能力」(『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社)としてあるはずのものだろうと思います。それに対して「差異化」によって成り立っている「分衆の顔」にはそのような自由の入り込む余地はありません。仮にそれを認めたとしたならこの図式自体が意味のないものになってしまうわけです。つまり「分衆の顔」は人間の自由や主体性を濾過したところで成り立っているわけですが、そこにまさにこの図式、すなわち「分衆」論の本質があったのではないかと推測されるのです。それは不確実で不確定なものを確実化させようとする試みであり、フロムの描く、生命の死によって確実化させようとするネクロフィラスな情熱を彷彿とさせるものです。
 『「分衆」の誕生』には人間を人間としてではなく無機物のように扱っている箇所が随所にあるのですが、次の文章も単に考えをまとめるための比喩としてのイメージを超えているといわざるをえない例の一つです。
「人々も気体分子のように浮遊しており、その位置を確定できない。時々、パルスが流れた瞬間、浮遊する個はネットワークを組む。分衆とは、いわばその瞬間的なネットワークである。」(同書) 
 このように「分衆」論では対象に対する態度がマスとしての消費者を扱う時の抽象的な態度と本質的に変わらないことが特徴です。そしてその同じ態度のまま対象のみが生きた一人一人の人間へ変わったときに起きた問題、それがすなわち理性や自由の濾過だったのかもしれません。
 しかし「分衆」論の抽象的な態度からくるこのような本質は「分衆」論だけの問題ではなく、実は感性論の本質に直接つながっているのだと思われます。つまり個としての消費者を見極めようとして細分化をすればするほど、自由と理性を持つ主体としての本来の個人の姿が見えなくなった、それゆえの感性論ではなかったかということです。

●市場のダブルイメージ化について

 ここまで述べてきたことは、自己実現を標榜するかのように見える「少衆」「分衆」論が、実は感性論を主張する点においてそれとは正反対の方向へのアプローチを提案するものだったのだということです。感性論的な主張は、だからこそいずれも「自律型」個性化のうねりのような高まりのなかであえなくも消え去らざるを得なかったわけです。このことは感性論に限らず、「自律型」個性化に対しての負の方向性に向かおうとするすべての努力に当てはまることが予測されます。
 ここで「自律型」個性化と「他人指向型」個性化がピークに向かいつつある中で「自律型」個性化が大きく進展し始めた状況にあるといえます。そしてこの状況がさらに進むと「他人指向型」個性化の勢いは衰えだし、一方の「自律型」個性化はますます進展していき、ついにはその全貌を現わすようになるだろうと思われます。それは見方を変えれば「他人指向型」個性化がその自律性のレベルを低い段階から高い段階へと連続的に移行していく過程ともいえるわけです。そしてその過程は、フロムの「市場的構え」における「生産的構え」の程度による変化に相当するはずです。すなわち「原理と価値観を持たない」から「気持ちが広い」へ、「孤独に耐えられぬ」から「社会的」へ、「無目標」から「実験的」へ、等の変化です。(『人間における自由』) 谷口隆之助・早坂泰次郎共訳 東京創元社)
 ここで先に提示した市場のダブル・イメージ化の問題に答えを出してみたいと思います。その一つに「良い・悪い」という単一の理性的基準で商品が選択されるなら特定の商品のみが売れるはずだ、しかし現実には多様化しているという問題があり、いま一つは市場が多様化する一方でスーパーヒットも次々に生まれているのはなぜかという問題もありました。
 これらの問題に対しては、いずれの場合においても、矛盾し合うように見える現象は、実はそれぞれ「自律型」個性化と「他人指向型」個性化という異なった個性化の過程で起きているのだというのを私なりの答えとしたいと思います。すなわち消費者の理性化やスーパーヒットは基本的に「自律型」個性化にそって生じ、市場の多様化は同じく基本的に「他人指向型」個性化にそって起きているということです。それを一つの個性化のみによって考えようとするために現象が矛盾しているように思えるわけです。
 たとえば先に「分衆論」の抽象的態度を示すために『「分衆」の誕生』から引用した箇所はそのことを典型的に示す文章でもあります。つまりそこでは差異化、すなわち「他人指向型」個性化のみが考えられているため、浮遊していたはずの「個」と、その「個」がネットワークを形成することの間を「瞬間」というかなり無理のある言葉でつながざるをえなかったのだろうと思われます。
 この場合も二つの個性化を前提のおくと、市場が多様化しているときにもネットワークは形成されており、またネットワークが形成されているときにも市場の多様化は続いていると無理なく考えることができるわけです。
 もちろんこれが事態を極端に単純化した答えであることは言うまでもありません。たとえば「他人指向型」個性化の本質は「他人指向」にありますから、集団的統合に成功した商品は「他人指向型」個性化の過程としてその集団内でヒットするわけです。また「自律型」個性化は、それこそ消費者の生産者化、すなわち「プロシューマ」化による高度の多様化をもたらしています。しかしこれらの問題も「自律型」個性化、「他人指向型」個性化と区分された各々の個性化におくことで、初めて矛盾や混乱に陥ることなく理解することができるのです。

●「自律型」個性化の今後の進展

 当然のことながら「自律型」個性化を直接的に促している自律性の増大は単に市場における理性化等としてのみ現われているのではありません。
 たとえばその最たるものを東欧諸国における共産党勢力の崩壊に見ることができます。しばしば伝えられたようにあれほど劇的な変動をもたらした直接のきっかけはテレビであって、それらの国の人びとが西側の放送を通じて自分たちの生活、体制、権力に虚偽を見出したことによります。それはすなわちその人びとの自律化への動きを意味するものです。また全世界的な規模でのエコロジー運動の高まりや核兵器の大幅な削減への動きなどにフロムの述べたバイオフィラスな方向性を見ることができます。
 このような自律性の増大はグローバルにしかもさまざまな方面で見られ、それゆえにこそその流れは圧倒的なのだと考えることができます。ではそのような「自律型」個性化の流れは完全に不可避的かといえば、もちろんそうではありません。
「自律型」個性化が今後も順調に進展するためにまず日本の政治体制がこれからも全体主義的なものにならないことが最低の条件になります。また「自律型」個性化が日本においてさらに本格的なものになるためにはそれをはぐくむ日本型社交集団がいま以上にはっきりと形成される必要があるはずです。あるいは現在の消費生活を根底から覆すような深刻な経済危機が訪れれば、そのことだけでも「自律性型」個性化にとって致命的であることが予測されます。そしてこれらすべてが変動きわまりない国際情勢に強く左右されているわけです。
 さらには、たまたま日本の「自律型」個性化に成長のエネルギーが乏しく成長それ自体のうちで立ち枯れてしまうという場合も考えられなくはありません。つまり「自律型」個性化は現時点では目覚ましいものがあるが、少なくとも日本においてはその多くがいまだ可能性のうちにあり、その進展には常に不確定さがつきまとうであろうというのが正確な見方だと思われます。
 そしてここに上げたのはいずれも「自律型」個性化の今後の進展を左右すると思われる要因ですが、この「自律型」個性化の進展にはさらにある逆説的ともいえる現象が伴っており、それもまたこの進展を危うくする可能性があるかもしれないという理由で、それをこれらの要因の一つに加えたいと思います。
 その現象とは、「自律型」個性化が、それとは逆方向の傾向を減少させていくなかで進展してはおらず、むしろ後者も同時に増大ないし極限化しつつあるということです。91年11月号で記した、宮崎勤の示したネクロフィリアはまさにそのことを象徴的に示しているわけです。
 次回はこの逆説的な問題を掘り下げたうえで、さらに「自律型」個性化に対応するアプローチの方法を考えてみたいと思います。

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