80年代広告論争から90年代を読む.6 最終回

思考と感性の統合による消費者の「自律型」個性化への対応


                           潟vランオメガ代表取締役社長 石井和郎

●「∞」としての自己

 前回(1月号で)、『「分衆」の誕生』(博報堂生活総合研究所編)の付図を取り上げ、ライフスタイルや購買力、感性などの組み合わせによって仮説された「∞」としての「分衆の顔」は、個性化する際の個人の自由と相容れず、したがってそれは現在の市場における消費者像を説明できないということを示しました。
 むしろ今日の個人のありかたからすれば、この役割や好みの組み合わせの総数としての「∞」は、そのような市場全体の姿としてよりも、そこにおける消費者一人ひとりの自己そのものの姿として考えたほうが市場の実体に即しているといえます。
 すなわち今日の自我は、役割や好みなどによって規定されるバラエティの一つとしての「1/∞」ではなく、むしろその逆数として表わされるべきだということです。
 先にも述べたように、現代の「他人指向型」社会では、個性は交換されあう記号として存在しています。その場合、個性は、たえず互いに他人を意識しつつ演じ合われる虚構であり、自分がそもそもいかなる人間であって、どのような才能や能力を持っているのかという自己の本来的な可能性はしばしば犠牲にされます。
 E・H・フロムは、虚構的に交換されあう個性を、需要との関係で価値の決められる、市場の商品とまったく同じものだとして、このような状況のもとで生じる自己疎外について次のように述べています。
「このようにして彼の同一性の感情はその自己尊重と同じく不確実になる。あおれは、人が演じ得る役割の総計によって構成されることになる。すなわち『自分は他の人の求める通りのものである』ということなのだ。」(『人間における自由』 谷口隆之助・早坂泰次郎共訳 東京創元社)
「演じ得る役割の総計によって構成される」自己とは、いいかえれば「演じ得る役割の総計」にまで分裂し、複数化した自己だということができるはずです。しかもその自己とは、さらに際限なく分裂していくことが可能な虚構の自己なのです。
 右の文章に続けてフロムは、商品化した個性には流行があり、そのためマスメディアを通じて示されるスターやモデルの個性が熱心に模倣されていることを指摘しました。このことは、マスメディアが当時とは比較にならないほどに飛躍的に発達した今日の社会においては、さらに重要な意味を持ちます。
『人間における自由』の出版された当時の人びとがマスメディアとどのように関わっていたかを、ちょうどそのころなされた、D・リースマンの『群衆の顔』(國弘正雄・久能昭共訳 サイマル出版会)に掲載されている面接調査からうかがい知ることがでします。
 すなわち1940年代末ごろのアメリカの青年たちが接触するメディアは、週に一度か二度かそれ以下、多くても週に二,三度程度観に行く映画とラジオ(これは毎日)が主なものだったのです。
 これに対して今日の日本の青年のメディアとの接触は、テレビやラジオ、あるいは漫画本を含めた雑誌などの生活への密着化をもって示すことができます。
 そしてそのような多種多様な媒体におけるドラマや広告から流れ出てくる無数の個性やライフスタイルが、「リアリティの逆転、あるいは記号・イメージにたしかなリアリティを感知する想像力の出現。ブラウン管という再生装置において逆転が起こっている。」(『若者文化人類学』 中野収 東京書籍)と指摘されるまでに至った、決定的な影響を今日の青年に及ぼしているわけです。
 そしてこの、ライフスタイルや個性の多様化の問題を、さらに日本の社会のさまざまな面での急激な国際化による影響をも含めた、より大きな観点から見るとき、この半世紀の間にわれわれ日本人のパーソナリティに起きた重大な変化の一つが明らかになります。すなわち情報の爆発的増加に比例した、自己の分裂あるいは複数化の爆発的促進です。

●「分衆論」の手法上の本質

 無数に分裂し、複数化した自己とは、初めに述べた「∞」としの消費者の姿にほかなりません。
「気体分子のように浮遊」(『「分衆」の誕生』)しているのは「人びと」ではなく、複数化した自己であり、そのような状態とは、アイデンティティをあやふやにされ、存在感を希薄にした、今日の自我のあり方そのものなのです。
 したがって先の『「分衆」の誕生』の付図は、「他人指向型」社会を生きる人間が、そのような自己の姿をマーケット上に映し出したものと見なおすことができます。
 ところが、そうするとこの付図は別のまったく新たな意味を持つことになります。つまりこの付図における、役割や好みの組み合わせによって規定される「1/∞」は、それによってある個人や集団が特定されるというのではなく、さまざまな場面に応じて自我が演じ分けるであろう虚構の個性に対応しているのだということです。
 それはまた、模倣されるべき虚像として、市場のなかに氾濫している虚構の個性にも対応しているわけです。
 以上のことから私は「分衆」論を次のように考えます。すなわちそれは、ある一つの虚像としての個性やライフスタイルを介しつつ、輪郭の曖昧な、空虚化した個人の自我を貫通してその背後の集団全体に働きかけるための手法であり、その集団こそが大衆と呼ばれるべき、「∞」としての巨大な消費集団にほかならないのだということです。(図1)
『「分衆」の誕生』では、マーケターのあり方について、「自分の行きたい店や自分の買いたいモノを作ればよい」とし、その理由を、今日の市場では「共通因数ニーズ」にかわって「素因数ニーズ」が重要になってきたからだとしています。
 たしかに、自分の生活感に基づいて創造するというあり方は、マーケティングのみならずクリエイティブ活動においてもきわめて重要な作法です。ただし、そのような独善的とも思える方法が現実のビジネスにおいて成り立ち得るのは、いまが「素因数ニーズ」の時代だからなのではなく、逆に厳密な意味での「素因数ニーズ」など存在しない時代だからなのだと考えるほうが明らかに論理的です。
 以上、「分衆」論が本質的に従来通りの大衆をターゲットにした考え方であることを少しトリッキーな感じのする述べ方で示してきたのですが、それは、もし「分衆」論をその言葉通りに受け取って批判するならば、それはまさに「極限的な」『差異化』戦略だ」(『「新大衆」の発見』 TBS調査部編)ということになるのに対し、実はそのことが見た目にすぎず、「分衆」論の本質はそこにはなく、あくまでも大衆をなんとか操作しようとする点にあるのであって、その有効性も限界もそのような本質から生じるのだということを示すためでした。
 また個人の生き生きとした生活感が創造性の源泉となっていることは、「分衆」論のみならず感性論的考え方がしばしば理性的なものを否定する根拠としてきた点ですが、右のように今日の自我のあり方を考えれば、そのような生活感が逆により普遍的なものにつながっているからこそ、創造性の源泉でありうるのだということも明らかになるわけです。

●自己の多様化と「自律型」個性化

 ライオネル・トリリングは、現代人が本物の自己を求めてやまないのは右のような自己の複数化や分裂によってもたらされる自我喪失感や空虚感のためだとし、そのような志向が究極的に何を求めているかを示唆して次のように述べています。
「今世紀初期の偉大な芸術運動の成りゆきを見ていると、《ほんもの》“authentic”という言葉のギリシアの祖語の中に明白にある激烈な意味のことを憶い出す。“Authenteo”とは十分な支配力をもつということであり、また殺人を犯すという意味でもある。“Authentes”とは唯単に主人であり行為者であるというだけでなく、加害者、殺人者の謂いであり、さらには自殺者、自殺の意味でもある。」(『〈誠実〉とは〈ほんもの〉』野島秀勝訳 筑摩書房)
 これによって「ほんもの」が、美術品や骨董品を超え、なんの意味もないつまらないものに至るまではほとんど強迫的に求められることの裏にある本当の意味を知ることができます。そして「ほんもの」という言葉がいかに慎重に使われねばならないかが分かるのです。
 今日、自己の空虚化はますます深刻化しており、そのような時に社会が、先に述べた「自律性」個性化における負の方向性に向かう面を持つことは、ある程度不可避的であるのかもしれません。
 しかし一方では人間は、そのような時代であるからこそ、「多様化して行く自己を統一する能力」(『柔らかい個人主義の誕生』 山崎正和 中央公論社)によってその自律性を増大させていくのでしょう。
 山崎氏は、このような時代における成熟した個人の姿を「演じられたいくつかの役の背後で、つねに静かに醒めている俳優の心の同一性」(同書)として述べています。
 このような、虚構の自己を虚構として見る、すなわち虚構の虚構化というあり方は、マリリン・モンローやキャンベル・スープを素材にしたアンディ・ウォーホルの一連の作品の見方に通ずるかもしれません。つまりそれを観るものは、虚構の虚構化によって、マイナスにマイナスをかけるとプラスになるように、虚像を虚像として見ながら同時に現実性を立ち返っているのです。
 この連載の初めに述べた消費者の理性化という現象は、このような自我の成熟によってもたらされていると考えられるべきでしょう。つまり広告に躍らされているかのように見える消費者が、実はその商品を、ウォーホルのキャンベル・スープを観るように醒めつつ観ているのだということです。
 そうであるとするならば、たとえば広告は面白くありさえすればいいという、これも感性論に共通する主張は、消費者がその広告を面白がっている側面だけを見て、同時にその面白さ自体を虚構化して醒めてもいるという、もう一つの側面は見ていない主張ではないかと考えることができるのです。
 このような広告の最も典型的な例を、かつてのエリマキトカゲを使ったミラージュの広告に求めることができますが、しかし非常に多くの広告がいまだにこのような誤りとまったく無縁とは言い切れません。

●「自律型」個性化の源泉

 このようにして「自律型」個性化における正負の両方向性は、互いに逆方向に進むものでありながらその根はまったく同一だと考えることができます。すなわちまず自己の多様化があり、それから正負の「自律型」個性化が進展するということです。そしてこれによって負方向への「自律型」個性化である自己中心性なども、あらためて本来の個性化が失敗し、堕落した形に過ぎないと見ることができるのです。
 このような「自律型」個性化の逆説的な表われ方は、個人の内面においても、社会においても見ることができます。それのみでなくその最も壮大な形を今日の旧ソ連や東欧諸国において知ることができるといえるでしょう。
 それらの国で現在起きているさまざまな形の民族間の紛争や対立は、民族個々の主張が」いかに正当なものであっても、同時に退行した側面を持っていることも否定できません。
 このことからこのような紛争や対立の背景に、東西が統合されるなかでももたらされているであろう個人の内面の危機を推測することができるのです。
 ここに民主化や個人の開放が進むと同時に、社会的危機も増大するという背反した関係の理由を見ることができます。

●「自律型」個性化と今後の広告

 最後に「自律型」個性化が急速に進展しつつあるなかで、広告を含めたマーケティングコミュニケーションが今後いかにあるべきかについて考えます。
 ここで主張するのは、思考や感性が有機的に統合され、それらが互いに相乗効果を持つような、消費者の理性化に対応した訴求の仕方です。このような訴求の有効性は訴求対象の成熟度に比例しており、必然的にその年齢とも相関することは明らかにされておく必要があります。
 A・H・マズローは、自己実現した人間に対しては広告もその手法を根本的に改めねばならないとし、次のように述べています。
「自己実現的人間にとって、反復や接近や、かってな報酬などは、しだいに重要なものではなくなってくる。普通のやり方による広告では、おそらくその人たちに対して効果がないであろう。かってな連想や威光暗示、俗物的アピール、意味のない単純な反復などにはほとんど動かされにくい。そのようなやり方はかえって逆効果を生むであろう。つまり、購買意欲を起こさせるのではなく、逆に失わせるのである。」(『人間性の心理学』 小口忠彦訳 産業能率短期大学出版部)
 このマズローの指摘をそのまま現在の広告にあてはめることはできませんが、今後の広告を考える際の遠い指標とされるべきものではあるはずです。
 そしてこのような過度的な状況において、次のリースマンの述べた内容はきわめて重要な意味を持ちます。
「私としては趣味の交換というのはそれ自身を超越して、まったくちがったものになるにちがいないと考えたいのだ。そして、他人指向型の人間の自律性の発展はまさにそこから始まるのである。」(『孤独な群衆』 過当英俊訳 みすず書房)
 そしてこのような意味では、今日の消費者がすでに口コミの場を通じて商品情報を多角的に交差させるようになっており、市場における消費者のプロシューマ化が始まっているという点が注目されます。
 このような状況で特に重要な問題になるのは、企業が行なうさまざまなアプローチの内容を相互にいかに一致させるかということです。そしてそのことは、これまで製品自体が優れたものでありながら商品として十分な成功を収めることのできなかったものの多くが、そのような一致に失敗していることによって裏づけることができます。
 たとえば前にあげた「シティ」(ホンダ)の場合、「新しいベーシックカー」(『主役は「隠れ大衆」 日経ビジネス編)として開発された性能の優れたコンセプトがそれとまったく異なっていたことによって売れ行きの不振を招いたという問題が挙げられます。あるいはそれとまったく同じ問題を「マーチ」(日産)の場合にも当てはめることができます。

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